とりせいのひトリごと。

ただ思うことを書き並べています。たまに言葉がエグくなったりする、かも

西野亮廣さんの絵本読み聞かせ行って来たよ

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オルガン生演奏、主題歌生演奏生歌つきの朗読会、って言ったら伝わるかなぁ

 

クラファンの申し込みのタイミングが良かったのか、席めちゃくちゃ前で。

西野くんと目が合ったという錯覚に何度陥ったか♡

 

顔ファンじゃないけど、自分を生きている人はやっぱりかっこいい。

 

 

ところでだね、人柄重視さんは合唱がお好きなのかな?

プペルの主題歌合唱コーナーもあったけど、キャンディとなんたらのクリスマスの絵本の主題歌を歌う場面がありまして。

 

「わかるひと一緒に歌って!俺歌詞うろ覚えなんだ!」と、ゴメンね顔でお客に投げかける。そんなのズルいわ。きゅんとしたわ!!

 

八戸のトークライブで山村さんも自分のテーマ曲、歌詞カード配布して歌わせてたなとふと思い出しまして。

 

 

わたしは、自分のテーマ合唱してほしいとかあんまない。

 

芸能人ほど有名になると望まない姿のファンもいるだろうに。笑

それを受け入れ糧にしていく芸能人はすげーなぁー、と思うのでした。

 

わたし自身のファンもいてくれてたら嬉しいけど、わたしの作品のファン、という位置が嬉しい。

 

中学生の頃の夢はイラストレーターだった。

『わたしの作品を見て何か感じて勝手に持って帰ってくれ』

と。

ライターとして活躍すると決めた今も根っこは変わらないのかもしれない。

 

人の役に立ちたいけど、直接手を貸すスタイルではない。ってことだね

 

人はもらって生きている

と、書くとなんか宗教くさいなあと思いましたが

 

生まれた時から人は、いろんなものをもらってもらって、生きてきたのだと。

ふと気づいたんです。

 

 

取りに行かなくても、特に日本人は与えられまくってます。

親からの愛情だとか学校教育だとか

しまいには、勝手に家のポストに投函されちゃうチラシまで。

 

 

なので、取っておきたいものは自分で選んで行かなくちゃいけないんです。

 

自分の家の中には、好きでもなんでもないものが残っていて。

 

『その時は好きだった』ものを、

『物は大事に使わなきゃいけないからポイポイ捨てないで!』という価値観に囚われて捨てられなくて

 

『物は捨ててもいい』のに、捨てるなと批判をされ

 

たまに途方に暮れます。

じゃあ、どうしろ?ってね。

 

 

さすると、やっぱり自分のものは自分で管理するに限ります。

自分のものは自分のエリアの中で管理する。

 

 

 

前に出たい

前に出るって言っても、芸能人になりたいとかリーダーになることとは限らないけど

 

誰かの補佐をしたい!と本気で思っているのと、誰かの補佐でいればとりあえず安心というのでは、意味合いがぜんぜん違う。

 

後者だと、前へ出る・批判を受けるのが怖いだけ。

自分のすることに自信が持てないから隠れ蓑になっているだけ。

 

まぁ、自分に向かって言ってる。

いつも誰かの後ろで自由にやってた。

そりゃあ、安全だよね。

 

 

前に出てやろうぜ!ってことだよね。

それは、みんなに言いふらせとかそういう前に出るじゃなくて

 

責任を受け入れるってことだ

文を書くこと

最初っからスラスラ書けるわけでもなければ、言いたいことだらけでもなくて

 

それでも書けるようになりたいと思ったからやる。それだけだな。

 

 

コールセンターに勤めだしたのも、日本語を上手に話せるようになりたいから

 

で、10ヶ月経っても未だにテンパるし早口にもなりゃ、聞かれている以上のことを話し出すw

上司に今日も指導を受ける

 

もうね、スマートでもなんでもない。笑

得意じゃないからやってる

でも

不安を埋めるためにはやってない。

 

 

知らない人と話すたび、こんなにいろんな人がいるのだと知る。

そして、毎度自分がどんなことに驚き、怒り、嬉しくなるのか、気づいて行く。

 

 

ライティング一本にして行きたい。

だから、話のプロとしての仕事も今のうちに全て吸収する。

やりきる。

 

 

 

 

 

 

 

久しぶりに一気に喋った

10年ぶりになる友人とも知人ともとれる人と会った。

 

話を聞きに行ったはずが、しょっぱなからマシンガンのように自分の価値観や、未来構想まで話す展開に。笑

 

自分をオープンに話せるかどうかって、その人との親密度もあるかもしれないけど、聞いてくれる側の器って大きいなあと思う。

 

その方には、わたしが心理学的なアタックをここ一年半し続けてきたことや、10年前の自己肯定感の低さを明かしたり。

 

10年前に出会った頃は、

『自分の付録があるからモテたり人気があるだけで、これを失ったら自分には価値がないって思っていたんですよ』と打ち明けた。

 

 

 

今だから言える。

越えたから言える。

 

自信をもつまでは、

『そんなこと言ったら自分が精神的に攻め込まれたり、弱い立場になってしまうのではないか』と思い込んでたから、弱い自分を隠し続けたな

 

 

 

今も、弱い部分はいっぱいある。

でも、晒しても大丈夫なんだと気付いた。

 

わたし、自分のことはしっかり話せるらしい。

マニュアルただ読むのは苦手だけど。

 

 

 

軽い石を投げることも出来たし

満足。

 

一気に詰め込み過ぎて

ブログを書いてないことすら忘れておりました。

 

今日はバレンタインデーですね。

トリュフ箱を5つも買ってしまったので、男性陣(親族)3人にラムボールを作って贈りました。

 

時間かからないのに本格的に見えてオススメです。

旧友との再会

小中学校の時の友人と2年ぶりくらいに会った。

わたしが住んでいる街は彼女の地元であり、彼女の旦那様の地元でもあるのだけど、それぞれ事情があり、頻繁には帰って来れないのだそう。

 

それなりに裕福で親と仲良くたってそうなのだから、みんな生きると決めた場所でがんばっているんだなぁと思う。

 

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2人して同じサラダランチを食べたのだけど、パン食べ過ぎて苦しかった(笑)

 

 

話は変わって、わたしが一昨年に起業まがいのことをやって挫折したことを、彼女はフェイスブックで見てくれていた。

 

その辺りの話にも触れたんだけど

 

『あなたが失敗だったと恥ずかしがっている経験はやっぱりあなたには必要な経験で、なんの無駄もないよね』

 

と言ってくれた。

 

言葉にすると、至って普通の言葉なのだけど、その言葉の中には己の『経験した悲しいこと』があるからこそ、深みがあり。

 

彼女の経験したことは失敗でも不幸でもなくて、必要な学びだったと。

今はちょっとだけ大変そうだけど、幸せそうで嬉しかった。

 

 

次に会えるのはいつだろう?

何度もまたね!と言って別れたが

こんなに切ない気持ちになったのはなぜだろう。

 

2年ぶりに一回ずつしか会えなくて、これから50年生きても25回なのか…と思うと会えなくなったわけじゃないのに悲しくなった。

 

 

だから、会いたい人には自分から会いに行かなくちゃダメだ。

会う方法は、いくらでもあるんだ。